追悼 筑紫哲也さん

[ありがとうP、ゆっくり眠ってください] 

2008年11月7日6時22分、吉川さんとこのマネージャー、田所さんから留守番メッセージが入っていた。
 「今筑紫さんのこと聞きました。本当ですか?まあくさん、教えてください」 その声で、何が起こったのかが解った。すぐコールバックした。
 「筑紫さんがどうしたの?まあくは何も知らないんだけど」
 田所さんは、やはり、絶対絶対聞きたくない言葉を言おうとしている。 
「今、知り合いの報道関係の人から電話で、・・・」田所さんが一瞬言いよどんだ。解っている。しかし、聞きたくない。「筑紫さんが亡くなったって聞いたんだけど、まあくさんも何も知らない?」 
何も知らない。ただ、覚悟はしていた。 
最後に電話で話したのが9月のはじめ頃だ。その10日ほど前にも電話があった。その少し前にはまあくから電話した。アメリカのユージーンからだ。自分の携帯ではなく、友人宅のPCからかけた。その電話に出た筑紫さんの第一声を聞いた時、まあくは、その様態がただ事ではなく、いっそう深刻になってるのを即座に理解した。

今年、3月のはじめ頃、オークラの桃花林でお昼ご飯を食べて、オークラに隣接する智美術館に柿右衛門展を見に行った。1階にあるフレンチの店を覗いて、いい店だね、今度来ようよ、と、筑紫さんはまあくに営業時間を聞かせた。この時の、すでに定番になってた帽子をかぶって美術館前に立つ筑紫さんの写真がある。筑紫さんとは色んな美術館ご一緒したが、こんなところに!と、二人して感動したので、それでは1枚、とまあくの携帯で撮った写真だ。 その次に会ったのが、3月11日だ。広尾の京鈴という料理屋で夕ご飯を食べた。自分はあまり食欲ない、と言いつつ、何品もの料理をまあくに注文させた。その頃の筑紫さんはいつもそうだった。異常に食べることにこだわってた。体力を落としたくない、その為には、食べたいものをどんどん食べたほうがいいんだ、と。でもまあくは何か不安だった。闘病の為の食生活、どんなものがいいのかをネットや本で調べてたから、何でも好きなもの、には抵抗があった。だから、その頃ご飯を誘われるといつもまあくは、蕎麦屋がいい、と言ってた。 京鈴でも、二人の好物のフグ刺しは頼んだけど、あとは野菜の煮物やおしたし関係ばかりを選んだ。筑紫さんは、まあはいっぱい食べられるでしょう、と、その他まあくが好きなものを何やかやと頼んでくれた。「まあが美味そうに食べてると、こっちも箸を出したくなるからいいんだ」とか言って。 しかしそのカウンターの席で、実は骨に転移した、と言う話しを聞いた。まあくは、フグ皮ぽん酢をつつきながら、どうリアクションしていいか迷った。 だから、関西のほうにある、ピンポイントで放射線をあてることが出来る施設に行く。「肺だと出来なかったんだけど、今度はそれが出来る」と言ってから、慌てて「だからって転移していいってもんじゃないけどね」と、筑紫さんは少しはにかんだように笑った。 
明日は福田さんと食事会がある、と言って、京鈴の前からタクシーに乗る筑紫さんを見送った。 
それが筑紫さんと会った最後だ。

それから、何度か電話はあった。いつも「実はあまり良くないんだ」という話しだった。その頃筑紫さんとまあくの共通の友人、吉川晃司くんから、初めてのミュージカル出演の相談をされていたので、筑紫さんにも色々アドバイスをもらっていた。吉川くんが演じる日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝さんのこと、その頃の時代、筑紫さんは丁寧にまあくに教えてくれて、自分ちから杉原本を探してくれたりした。フライヤーとプログラム用にコメントももらった。思えば、まあくは、筑紫さんが病気になってもなお、頼みごとをしていたのだ。ごめんね。 まあくが来月12月にやる「タンゴモデルナ〜VOL8」というショーのフライヤーにも筑紫さんのコメントが出てる。「タンゴ〜」は、1999年のVOL1からいっぱい応援してもらった。「タンゴ〜」の全てのフライヤー、全てのプログラムに筑紫さんがコメント書いてくれている。題字も筆で筑紫さんに書いてもらった。「ムーングレード」もそう。タンゴ〜VOL4のときのゲスト、宮沢和史さん(BOOM)を紹介してくれたのも、筑紫さんだ。 電話の声はどんどん落ち込んでいった。だから「23」に出たりしてるのを人づてに聞いたりすると、元気になって出てるんじゃなく無理しているんだ、というのがまあくには解るから、つい電話できついことを言ってしまっていた。もう番組のことより、自分のことだけ考えて下さい。それも筑紫さんには辛かったのだろう、ぷっつり電話がこなくなった。 そして、6月30日の「23」で、久しぶりに中坊公平さんとのオンエアーを見て、愕然とした。もう、あの筑紫さんじゃなかった。 「テレビではミエ張って元気にしてしまうけど、実はけっこう辛いのよ」と、何年も前からよく筑紫さんは言ってた。風邪気味の時、時差ボケが直らない時、どんなに体調悪くてもカメラの前では元気そうにしてしまう自分に対して揶揄も含んだ言い方で。 
「まあにも元気に見えるんだったら、大丈夫だな」などと、「休めばいいじゃないですか」と、とがって言うまあくをからかっていた。 中坊さんにも、ニコニコと話しかけている。でも辛いんだろうな、ミエ張って精一杯元気そうにしてる筑紫さんの痩せた姿を、まあくは呆然と見ていた。中坊さんの話しを聞く間も何度も足を組みかえてる。同じ体勢でいるのが痛いのかもしれない。
 しかしこちらは何もしてあげられない。これまでたくさんのことお世話になって、まあくのこといっぱい助けてくれた筑紫さんに、まあくは何もしてあげることが出来ない。 
ただ祈るのは嫌だった。最初に病気のこと聞いた時、去年の5月9日の夜だ。その時の筑紫さんとの電話でのやりとりは、連載しているビューティービジネス誌のエッセイにも書いた。その電話を切ったその手で、インターネットで小細胞肺がんを検索した。悲しむより、祈るより、お守り買うより、とにかく情報集めたかった。がん関係の本もアマゾンから取り寄せて読んだ。何がいいのか、悪いのか。 そんなまあくだったが、その時筑紫さんを見た時は、神様に祈った。 

それから・・・、筑紫さんのブログが終わった。 7月の末から夏休みがとれた。友人の住むオレゴンのユージーンという所へ行った。8月18日、もう今から帰国、というその夜明け前、友人がネットから見つけたのは、筑紫さんが映画のトークショーに出る、という情報だった。日にちは8月26日。こちらは電話もかけてこられない状況を想像出来るから、そんなトークショーに出ることは不可能だと思った。が、もし、体調が好転したのなら、ホントにそのトークショーに出るのなら、絶対に行きたい。時差関係計算すると日本は朝の8時過ぎだ。オレゴンくんだりまで来ていても筑紫さんのことは頭から離れることはなかった。確認しよう。まあくのノキアの携帯でもかけられたが、友人が気を利かせて速攻PCで筑紫さんの携帯に電話をしてくれた。 呼び出し音がしばらく続いた。やはり出られないのか、まだ寝てるのかも、諦めかけたその時、筑紫さんが、出た。その第1声を聞いて、胸がつまった。やはりトークショーどころじゃないのがすぐにわかった。 

その後、友人の車でユージーン空港へ向かった。早朝だがサンフランシスコ行きは混んでいた。ぎりぎりの時間、いらいらしながら長い列を並び、やっと荷物のチェックゲート。帽子、ベルト、携帯をボックスに入れ、靴を脱いでゲートをくぐる。チェックが終わった携帯がこちらに向かって流れてきた。その携帯が光っている。鳴っている。ひっつかんで電話に出た。やはり、筑紫さんからだった。 靴を履きながらこちらの状況を言う。さっきは何も話せなくてごめんね。先ほどと同じ、声に全く力がなかった。づうーとね、まあに手紙を書こうと思ってたんだ。いいですよ、解ってますから。携帯持つのも辛そうな筑紫さんの姿が目に浮かんだ。出発ゲートに向かって歩きながら、話し続けた。初めて筑紫さんが弱音を吐いた。でも励ましの言葉が出てこない。日本に着いたらすぐそちらにいきましょうか。まあくの問いに、搾り出すような筑紫さんの、無念の言葉が返ってきた。 

東京に戻って1週間くらいに、電話があった。朦朧とした声だった。でも話してるうちにどんどんしっかりした声になってくる、が、息の途切れは多くなる。話すの辛いならしゃべらなくていいですよ。実は鹿児島に居るんだ。鹿児島?治療の為?。話せば長いんだけどね。じゃあ話さなくていいですよ、鹿児島に行きますよ。すると、また筑紫さんはユージーン空港で聞いた同じ言葉を言って、絶望的な声をあげた。 

毎朝、新聞を開くのが怖かった。テレビを見ていて、臨時ニュースのピンポン、という音にびくんとする。何もわからない、こちらから何も出来ないのが無念だった。しかしその頃からまあくには“覚悟”みたいなものが出来ていた。 それから9月に入ってすぐの頃か、また電話があった。かすれた声だったが、意識はしっかりした筑紫さんの声だ。状況を聞くのも辛い。まだ鹿児島にいるんだ。鹿児島だってどこだって行きますよ。そして、いつものやりとり。でももうまあくは泣かなかった。自分が筑紫さんに伝えたいこと、全てを言った。 だから、とにかく会いましょう。うん、そうだね、何とか東京に戻れるよう頑張るよ。少しだけ明るい声になった。戻って、何とか会えるようにしよう、うん、そうしよう。そうですよ、早く帰ってきてください。そうだね、ありがとう。だから、戻って来てください。うん、そうだね。じゃあね。 筑紫さんと話した最後だ。 

覚悟はしていた。田所さんの言葉を聞いた時も、来たな、という思い。悲しみが押し寄せる、という感覚もなかった。そして、すぐパソコンの前に座って、これを書いている。
その間に次々と、メールや電話がきた。みんな長い間まあくと筑紫さんが一緒に仕事して一緒に遊んでいたのを知ってる友人たちだ。 遊ぶ、と言っても、映画、コンサート、オペラ、ミュージカル、美術館、色んなものを観に行くことだ。結局それも我々にとっては仕事になるのだけど。 いつも帰りは駆け足状態でTBSに行かなければならなかったから、ゆっくりお酒を飲む機会もあまりなかった。年に1回くらい、共通の(畏れ多くも)友人で、うちのクライアントでもあるコーセーさんの会長とその奥様と4人で、スポンサードしているレニングラードバレエを観て、銀座でフグを食べ、ひれ酒を飲む、なんてことはあったが。 映画会社の人からもいたわりの電話をいただいた。いつも試写会に筑紫さんと行ってたからだ。宣伝の人たちは、その映画の面白さをまあくにアピールして、最後に、だからぜひ筑紫さんとご一緒に試写を観に来て下さい、って。他の観劇もそう、まあくは筑紫さん案内係みたいなものだった。 まあく自身がどうしても観たいもの(特にオペラ)も、よく筑紫さんに連れてってもらった。最後に筑紫さんと一緒に観たオペラは、今年の2月、「イーゴリ公」(NHKホール)だった。あの誰もが聴き慣れている美しい曲が「だったん人の踊り」というタイトルだということを初めて知った。このエピソードは、舞ランド誌のエッセイに書いた。 
本当に最後の最後まで筑紫さんには色んなこと教わった。それが全て、まあくの仕事の糧になった。 
ありがとう。 
たまに、むりくりなもの誘った時は、客席で「眠いなあ、寝ていい?」と、マジに眠りこけてた時もあった。いつも寛いだ時に「眠いな」と言ってた。やはりここ何年は、づうーとハードだったのだ。他ではミエ張ってたけど。 もう、もう、ゆっくり眠ってください。おやすみなさい。楽しい楽しい時間をいっぱいいっぱいありがとうP。 

まあ

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